【文字によるコミュニケーションの危険性】

 いまさらですが、インターネットそのものが新しいコミュニケーションの道具として、私たちの生活には欠かせない物になってきました。そのトラブルが小学生同士の殺人という痛ましい事件(2004.6.1)となった今、もう一度原点から、この新しいコミュニケーションの道具について考えてみたいと思いました。
 ネットでのコミュニケーション手段として、ホームページがあり、その中で掲示板(BBS)やチャットという相互にメッセージを伝える手段があります。ホームページに書かれたものは、発信者からの一方的な言葉です。しかし、掲示板やチャットは誰もが発言でき、誰もが閲覧できるという特徴を持っています。でも、ここでは、インターネットの公共性を問題視するのではなく、文字によるコミュニケーションの問題点を掘り下げたいと思います。

 まず、私たちは対面でのコミュニケーションを学びます。相手の顔を見て、適切な言葉で、適切な間を持って話します。ここには時間と空間があります。私たちは表情の変化、言葉の抑揚、体の動きで言葉を補なっています。これらは文字では表現できないのです。
 それでも、ネットでのコミュニケーションを続けてきた人々は顔文字という表現方法を作り出しました。

 \(^o^)/ v(≧∇≦)v (^_^;) (((p(>o<)q)))  (T◇T) (#^_^#)  φ(。。)  m(_ _)m (参照:顔文字王国顔文字図書館) 

 文字による簡単な感情表現「(笑)」や「(汗)」「(泣)」などありましたが、種類が少なく微妙な表現でもありません。それに比べて顔文字は同じ様な表現でも種類が多く、感情と動作が表現できることから、様々なものが生み出されています。これは、文字だけでは表現できないこと、コミュニケーションには感情表現が重要だということを認めた上での発展ではないかと思います。
 このように文字だけのコミュニケーションを補うために文字を駆使した漫画的な表現は、非常に秀逸なアイデアです。ただしかし、記号化された感情表現には受け手の感性によって意味が全く伝わらないこともあります。これ以上は対面でも腹の内まで分からないのと同じで、そこまで感情を引き出す必要はないかも知れません。
 ともかく、文字だけの表現の限界があり、それを補う方法も考え出されているということがとても重要なことです。

 掲示板は手紙に近い物があります。学校で隣の子にメモを書いて渡す。そんなときにも、やはり顔文字のような絵を添えて感情を表現します。感情表現はとても重要だという認識がそこにはあるはずです。さらに掲示板は、そこにいつまでも内容が残ってしまうということで見返すことができたり、プリンタで印刷して残すこともできるし、内容をコピーしてホームページや他の掲示板やメールなどを使ってまた別の人にも見せることができてしまいます。ホームページは1つの閉ざされたコミュニティ(社会、空間)のように間違った認識を覚えてしまうことがあります。しかし、そこでさえ誰もが来訪することができますし、人が別のコミュニティに発言を運び出すことさえ容易なのです。例え一人の友達に向けた言葉であっても、それを評価するのは来訪する全ての人々なのです。直接言葉を投げ合う二人がいても、それによって傷つく周りの人がいるかも知れないという配慮が必要になるのです。

 チャットは、通常書き込んだ発言はあまり長く残りません。もちろん、新しい発言がなければ残ります。10〜20個くらいの発言が常に画面に表示され、新しい発言があると、古い物が1つ消えます。しかし、これは表面だけで、サーバーの中には残っている場合もあります。50個の発言が残っていて、そのうち20個だけが表示されているという場合もあるのです。チャットは電話に近い感覚で、短いメッセージを送ります。これも掲示板同様誰もが自由に閲覧できるのが一般的です。

 この他に専用のソフトを使って1対1でチャットができるインスタントメッセンジャー(IM)というものもあります。また、メールのソフトを使ったメーリングリストでは、多数の人にメールを送ってお互いの発言を見ることができます。それぞれの解説ページをご覧下さい。

 最後にホームページについて、ホームページには発信者が用意したコンテンツがあります。自己紹介、趣味の紹介、日記や作文などの記事です。もちろん、写真やイラストも使われます。これも自己表現の一つの方法ですが、ホームページそのものは発信者の一方的なものであり、感情や価値観も一方的に発信されます。そのため、感情的な発言があってもそれを誰にも抑止することはできません。反論や注意をうながすためには、メールや掲示板が必要になります。もしこれらの手段がなければ、本当に一方的な押しつけだけで終わってしまうことでしょう。

 どのような手段で自分の意見を公表するにしても、はやり一方的な言葉や価値観を押しつけることには反発が予想されます。最初に述べたように文字だけのコミュニケーションでは、適切に自分の意志を伝えることは意外に難しい物で、誤解を生みやすいこともあります。発言をする方も、見る方も、そのような誤解を回避する方法を知っておくべきです。
 何より、肝要に発言を見送ることです。1つの価値観を即座に押し殺そうとしても、それもまた価値観の押しつけになるからです。一般的な解決方法は、発言を無視するという消極的な物です。これは、争いを起こさないということでもあります。しかし、発言者は自分の過ちに気づくでしょうか?難しいのは放置しても根本的に解決しないことです。ここにそのコミュニティの管理者が重要な役割を果たします。しかし、管理者自身の発言であれば、誰にもいさめることはできないかも知れません。でも、そのようなコミュニティに留まる人はいないでしょう。そうやって、認められない価値観は置き去りになって行きます。
 コミュニティの方法というのは、やはり教育されないといけないのかも知れません。間違った発言を注意されて、ようやく気づくということは、多々あるのだと思います。これが現実世界で行われてから、ネットの世界に入ってくれば良いのですが、今ではそうも行きません。失敗から学ぶ機会をネットでも必要としているということでしょう。

 現実のコミュニティをそのままネットに持ち込む場合もあります。その場合、ネットで起こったことが、現実の人間関係に直接影響を及ぼします。ますます現実とネットの境目がなくなっていきます。もし、ネットでのコミュニケーションの場所を提供したいという人は、しっかりとネット上のコミュニティーを管理して未然に事故を防ぐように注意しなければなりません。まず、管理者がネットの問題点を理解して置くことは重要です。そして、利用者も自分の発言に責任を持つと同時に、他者の発言を間違いのないように汲み取る努力や、間違いを大らかに見守ったり、優しく指摘できるようにならないと、直情的な感情だけが文字になって本当の言葉が伝わらなくなってしまいます。意味不明の言葉は不快な感情を見る者に与えます。
  足りない言葉の責任は自分にあります。また、見えない感情を読みとるのも自分の責任です。そう思って発言を読み、相手の発言を悪と決めつける前に、足りない部分を補って考えてあげるくらいの優しさが必要なのです。
 それでも、悪意ある発言には、対処はできないでしょう。そんなときは、何もせず放置することも重要です。そして、第三者に注意をしてもらうことも必要かも知れません。 まだまだ、使い慣れないコミュニケーションの道具には困難がありますが、閉鎖されないオープンな空間であることが、解決策になるかも知れません。管理者や大人たちが、上手にコミュニティを誘導して行く必要があるのかも知れません。

 ネットには大人も子どもも混在したコミュニティがあります。幼稚園児でさえもインターネットで遊びます。大人が管理する限界はありますが、しつけと同じで、マナーや危険性を教えることは大人の責任だと思います。ネットの入り口でネチケットを教えたり、子どもと一緒になってメールや掲示板、チャットに参加するなど、もっと時間を掛けて子どもたちに教えることはあるはずです。 大人もネットに苦心しているくらいですから、学校や行政がサポートできる社会体制も必要なのかもしれません。道具として使っていく以上、その危険性を無視することはできないのです。
 まだまだ、ここで結論が出るほど、ネットというコミュニティも成熟はしてません。しかし、今一度、考え直す機会にしないと行けないと思いました。


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